昭和天皇は、現在の天皇陛下(令和時代の天皇陛下)の祖父にあたる方です。
日本の歴史上の天皇陛下にはいろんな人たちがいますが、昭和天皇はその中でももっとも激動の人生を歩んだ人といっても過言ではありません。
昭和天皇の在位中には日中戦争・第二次世界大戦のほか、日本史上初の外国による占領から高度経済成長、バブル景気まで、さまざまなできごとが起きています。
この記事では、そんな昭和天皇の激動の人生の中で、特に印象的なエピソードについてまとめましたので、ぜひ参考にしてみてください。
昭和天皇とマッカーサーのエピソード
昭和天皇のエピソードの最も有名なもの…というと、やはり第二次世界大戦で大敗を喫した後、昭和天皇がマッカーサーを直接訪問したエピソードが挙げられます。
昭和天皇がマッカーサーを訪問したのは、昭和20年9月27日のことで、玉音放送で日本国民に対して敗戦を報告した約1か月後です。
この時、昭和天皇はマッカーサーに対して以下のようなメッセージを伝えたとされます。
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。」
引用:マッカーサー回顧録より
つまり、昭和天皇は太平洋戦争の全責任は自分にあるということを明言したのです。
その結果として招いた様々な悲劇を自分の責とし、その裁きを受ける覚悟があるとマッカーサーに伝えたということです。
昭和天皇が終戦後、最も気にしていたのは、自分の臣下であった者たちが裁かれ、国民たちが生活に困ることでした。
自分を裁くことによって、どうか臣下たちや国民たちがこれ以上辛い思いをしないで済むよう配慮してほしいと、昭和天皇はマッカーサーにお願いしたということですね。
結果として、マッカーサーは昭和天皇のこの態度に酷く感動し、尊敬の念まで抱いたといいます。
昭和天皇がマッカーサーを訪問した当初は、マッカーサーはノーネクタイでラフな開襟シャツでやや横柄ともみてとれる態度だったそうです(有名な写真あり)
しかし、昭和天皇とのわずか数分の会談後には、マッカーサーは昭和天皇の後をついて玄関まで見送るほどに態度を改めます。
このマッカーサーの変化には、日本側もかなり驚いたそうです。
結果的に、アメリカ国内では昭和天皇を裁くべきという世論が強かったにも関わらず、GHQは昭和天皇を象徴として据え置くことを決定しています。
この決定は、日本の復興が早まる要因の1つになったと言われています。
昭和天皇は戦争責任で悩んでいた?
戦後の憲法では「象徴天皇(国民のシンボル)」の扱いになった昭和天皇ですが、自身の戦争責任については悩み続けていたという証言がいくつも挙がっています。
宮内庁長官であった田島道治は昭和天皇とのやり取りを残しており、その中で昭和天皇がサンフランシスコ講和条約式典で「『反省』という言葉を入れたい」としきりに主張していたということが分かっています。
でも結局、昭和天皇の「反省」という言葉は、象徴天皇であるがゆえに公に発言されることはありませんでした。
昭和天皇の側近であった小林忍侍従の日記では、晩年の昭和天皇が以下のように発言したという記述が見つかっています。
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。(中略)戦争責任など。」
昭和天皇は国民に対して、世界に対して、自分の本当の想いを伝えることができず、ずっと辛い思いを抱えて生きていたのかもしれません。
昭和天皇と皇后のエピソード
昭和天皇というとどうしても戦争と切り離せないため、重いエピソードが多くなりますね。
しかし、中にはほんわかとするエピソードがあります。それは香淳皇后との愛の物語です。
香淳皇后とは?
香淳皇后は、昭和天皇の生涯唯一の妃です。
現在では皇室へ民間人が嫁ぐこともありますが、昭和天皇の時代は皇族から嫁ぐのが当たり前でした。
香淳皇后も皇族の出で、久邇宮邦彦王の第一王女子です。
早くから明治天皇が久邇宮家を気にかけており、皇太子妃になるべく英才教育を受けています。
とんとん拍子に縁談話は進み、大正9年6月に婚約が内定します。
婚約破棄?昭和天皇の意志で回避
家柄も人柄も申し分ない香淳皇后でしたが、なんと婚約破棄の危機に直面したことがあります。
これは、「宮中某重大事件」と呼ばれるものです。
香淳皇后の家系に色覚に障がいがある人がおり、遺伝的に難あり…ということで元老山縣有朋が婚約破棄を久邇宮家に要求したといわれています。
実は、昭和天皇のお父さんの大正天皇のときにも、一度お妃に選んだ相手に健康上の問題があるということで婚約破棄をしています。
天皇ということはお世継ぎがとても大事なので、遺伝的な疾患や健康上の問題は憂慮すべき問題なのです。
しかし、昭和天皇は「良子でよい」(※良子とは、香淳皇后の女王時代の名前)という一言を発し、婚約を続行します。
この結婚を最終決定したのは昭和天皇自身だったと考えています。
縁談話が出た後には関東大震災が起きたこともあり、いろいろな事情が重なって婚約から3年以上の歳月が過ぎた大正13年にやっと結婚できることとなります。
昭和天皇との仲は良好!手をつなぐことも
紆余曲折を経て無事に結婚した二人は、とても仲良しだったという記録が残っています。
二人で仲良く手をつないで散歩をしていたというエピソードは有名です。
また、二人の間には7人の子供が生まれていますが、当初は皇女ばかりが誕生したため「側室を…」という話もあったそうです。
しかし、昭和天皇は「良宮(ながみや)がよい」(※良宮=香淳皇后のこと)と、側室を持つことを拒否したといわれます。
ちなみに、昭和天皇の爪を切るのは香淳皇后の役目でした。
他の人に爪を切ってもらうことを嫌がったそうです。
晩年、香淳皇后が体調を崩しがちになり、夜たびたび昭和天皇を起こしてしまう…ということがありました。
事態を憂慮した周囲の者が「寝室を別に」と助言しても、昭和天皇は「一人で寝ても必ずしもうまくゆくとは限らぬ」と香淳皇后と一緒の寝室にこだわったそうです。
まとめ
今回は、現在の天皇陛下の前々代の天皇陛下である昭和天皇のエピソードを紹介いたしました。
戦争のイメージがある昭和時代ですが、そんな中でも皇后陛下との仲睦まじいエピソードや、自分の命をかけてでも日本国民の窮状をマッカーサーに訴えたエピソードは胸に迫るものがありますね。