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第二次護憲運動の意味とは?時代背景〜語呂合わせまで簡単に解説

第二次護憲運動とは、「護憲三派」といわれる人たちが、「当時の政府」に対して、「国民の意思にもとづく政治をさせろ」と求めた運動のことです。

第二次護憲運動の意味

  1. 護憲三派」といわれる人たちが、
  2. 当時の政府」に対して、
  3. 国民の意思にもとづく政治をさせろ」と求めた運動のこと

護憲三派というのは憲政会・立憲政友会・革新倶楽部という3つの政党のことです。

↓第二次護憲運動の中心となったのは、憲政会リーダーの加藤高明です。

第二次護憲運動

(第二次護憲運動が成功した結果として総理大臣になった加藤高明)

「国民の意思にもとづく政治をさせろ」というのは、簡単に言えば「選挙で選ばれた人間を総理大臣にしろ」という意味です。

当時の総理大臣は必ずしも選挙で選ばれた人がなるのではなく、政府の中の有力者といわれる人がなるのがむしろ普通だったのです。

こういう人たちは国民の意思を無視しがちでした(このように、政党の意見を聞かない内閣を当時「超然内閣」と呼びました)

今でこそ選挙で勝った政党のリーダーが総理大臣になるのは当たり前になっていますが、このようなルールができたのは第二次護憲運動の成果なのです。

(選挙で衆議院の第一党となった政党のリーダーが総理大臣になることを「憲政の常道」と呼びます。憲政の常道は五・一五事件で犬養毅が軍人に暗殺されるまで続きます)

この第二次護憲運動は、大正時代の1924年におきました。

>>第二次護憲運動(1924年)の語呂合わせでの覚え方はこちら

この頃は大正デモクラシーといわれる時代で、民主主義(デモクラシー)をもりあげていこう!という雰囲気がとても強かった時期です。

第二次護憲運動は、大正デモクラシーが最高潮にもりあがったタイミングで起きた事件だったのです。

以下では、第二次護憲運動が具体的にどういうものだったのか、時代背景やその後の歴史にどのような影響を与えたのかについて、簡単にわかりやすく解説します。

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第二次護憲運動とは「国民の意思に基づく政治をやれ」と求めた運動のこと

第二次護憲運動

(第二次護憲運動の意味とは?簡単にわかりやすく解説します)

↓上で見たように、第二次護憲運動とはこういう意味です。

第二次護憲運動の意味

  1. 護憲三派」といわれる人たちが、
  2. 当時の政府」に対して、
  3. 国民の意思にもとづく政治をさせろ」と求めた運動のこと

第二次護憲運動の意味についてくわしく理解するために、まずは2.の「政府」とはどんなものだったのか?について簡単に説明しましょう。

↓政府とは、こういうふうに考えてもらえば問題ありません。

政府=総理大臣+内閣

総理大臣が選ぶ政治の主要メンバーを内閣と呼びます。

現在の日本の総理大臣(政府)は、国会議員の中から選ばれますよね。

現在の安倍総理は、自民党という国会議員の集まりで選挙に勝って、自民党の国会議員から「あなたが総理になってください」と指名されて総理大臣になっています。

国会議員は国民が選挙で選びますから、総理大臣も国民が選んでいるといえます。

↓このような現代の仕組みをわかりやすくまとめると、このようになります。

  1. 国民が選挙で国会議員を選ぶ
  2. 国会議員が自分たちの中から総理大臣(政府)を選ぶ
  3. だから、国民は総理大臣(政府)を選んでいるといえる

こういう仕組みのことを間接民主制と呼びます。国民が「間接的に」総理大臣を選んでいるというわけです。

現在は間接民主制が当たり前になっていますが、第二次護憲運動が起こった当時は、「国民の選挙で選ばれた国会議員の中から総理大臣を選ぶ」ということが必ずしも守られていませんでした。

当時は国民主権ではなく、天皇主権の世の中でしたから、総理大臣は天皇陛下が直接任命していたのです。

(もちろん、天皇陛下が自分の好きな人を勝手に総理にしていたというわけではなく、側近が指名した人をその通りに任命していました)

このように、天皇陛下の側近が、国民の意思を聞くことなく選んだ総理大臣が作った内閣のことを「超然内閣」と呼びました。

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第二次護憲運動とは「超然内閣」を「護憲三派」が倒した運動のこと

第二次護憲運動

(第二次護憲運動が起こる直前に「超然内閣」を組閣した清浦圭吾)

超然内閣とは、「国民の意思なんか超然(無視)して、自分たちの好きなように政治をやる」という意味です。

当然、国民からしたらこんな政府は倒してしまいたいと思いますよね。

第二次護憲運動が起きる直前のタイミングでは、以下のように超然内閣が続いていました。

第二次護憲運動の直前=超然内閣

  • 加藤友三郎(海軍)
  • 山本権兵衛(海軍)
  • 清浦圭吾(貴族院)

山本権兵衛などは国民から人気があったのでまだ良かったですが、その後を継いだ清浦圭吾は国民からも人気がありませんでした。

護憲三派=憲政会+立憲政友会+革新倶楽部

第二次護憲運動

(加藤高明は大隈重信の秘書官・外交官出身の政治家です)

このような国民の声にこたえて、超然内閣である清浦圭吾内閣を倒すために頑張った政党が「護憲三派」といわれる政党なのです。

↓この護憲三派とは、以下の3つの政党のことをいいます。

護憲三派とは

  1. 憲政会
  2. 立憲政友会
  3. 革新倶楽部

なお、この中で中心になったのが憲政会で、憲政会のリーダーだった加藤高明が第二次護憲運動成功後の総理大臣になります。

超然内閣に対して護憲三派と呼ばれる民主主義を目指す三政党が反対し、総選挙を通じて勝利する、というのが第二次護憲運動の一連の流れです。

このとき誕生した加藤高明は、「選挙結果に基づいて首相となった人物」です。

これは、当時の日本人にとってはとてもすごいことでした。

この民主的な改革によって、普通選挙法や協調外交の方針がとられることになります。

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護憲運動=「憲法を守る運動」ではないので注意

現代の日本で「護憲」というと「憲法を護る(まもる)」という言葉です。

しかし、「第二次護憲運動」の「護憲」は、これと同じ意味ではありません。

当時の憲法は大日本帝国憲法ですが、この大日本帝国憲法は、必ずしも「選挙で選ばれた国会議員じゃないと総理大臣になれない」というルールにはなっていないからです。

それでは第二次護憲運動の「護憲」とはなんなのか?ですが、ここでいう護憲とは、「憲政を護る」という意味です。

↓そして、この「憲政」という言葉には、以下の2つの意味があります。

護憲の「憲」=「憲政」の意味

  1. 憲政=憲法にもとづく政治
  2. 憲政=議会制度による政治

憲政という言葉も現在では1.の意味が強いですが、当時の意味は2.です。

第二次護憲運動といった時の「護憲」は2.の「議会制度による政治」という意味です。

議会制度による政治というのは、「選挙で勝った政党に所属する国会議員の中から総理大臣を出す」という政治のことです。

これはまさしく護憲三派が超然内閣である清浦圭吾内閣に求めたことそのものです。

そういう意味で、第二次護憲運動は「憲政擁護運動」とも呼ばれるわけです。

第二次護憲運動によって成立した「憲政の常道」=選挙で勝った政党が総理大臣を出すシステム

第二次護憲運動

(第二次護憲運動によって成立した「憲政の常道」は、犬養毅の暗殺によって終わりを迎えてしまいます)

ここから後、数年間は、「選挙で国民で選んだ政党のリーダーが、内閣総理大臣になる」というルールで政治が運営されていきます。

これを「憲政の常道」といいます。

憲政の常道とは、現代の言葉で言えば「二大政党制」のようなものです。

ただし、第二次護憲運動によってせっかく成立した憲政の常道は、この後に起きた「五・一五事件」によって終了して今います。

五・一五事件とは、軍人が当時の総理大臣であった犬養毅を暗殺してしまった事件です。

五・一五事件の後は、「選挙で勝った政党のリーダーが総理大臣になる」というルールがくずれてしまいます。

なお、五・一五事件で暗殺された犬養毅は、護憲三派のうち「革新倶楽部」のリーダーだった人です。

第二時護憲運動(1924年)を語呂合わせで覚えるなら

第二次護憲運動の年代を、語呂合わせで覚えるなら以下のような方法がおすすめです。

↓まず、第二次護憲運動が起きたのは1924年ですので、以下の2つのどちらかで覚えましょう。

  • 「特によろこぶ(1924)第二次護憲運動」
  • 「第二次=にじ=24=1924年」

また、第二次護憲運動の前に起きた「第一次護憲運動」は1912年です。

↓この2つはセットで思い出せるとより良いですから、以下のようにクリスマスイブ(12月24日)になぞらえて覚えると良いです。

  • 第一次護憲運動=1912年=12(月)
  • 第二次護憲運動=1924年=24(日)
  • 2つまとめてクリスマスイブ=12月24日

第二次護憲運動は「日本の民主主義が完成に向かってぐぐっと近づいたできごと」です。

明治期時代は「国がぐいぐいひっぱって国家を作っていく」という状況でしたが、大正時代には「国民が選挙を通して国家を作っていく」という雰囲気が盛り上がっていきます(これを対象デモクラシーと呼びます)

「国家の運営者=国」から「国家の運営者=国民」のターニングポイントに第二次護憲運動があると理解しておきましょう。

なお、第二次護憲運動によってせっかく国民中心の政府ができたのですが、その後は軍人の暴走によってこの流れは敗戦まで途絶えてしまいます。

第二次護憲運動で成立した「憲政の常道」がその後もちゃんと機能していれば、第二次世界大戦でアメリカと戦うという間違った判断はなされなかった可能性もあります。

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第二次護憲運動の背景

第二次護憲運動の時代背景について、もう少し踏み込んでみておきましょう。

第二次護憲運動の背景を理解するに当たり留意しておくべき点は、当時内閣とそれ以外は対立関係にあった、ということです。

第一次世界大戦において日本は総力戦体制で参加したため、戦後国民から政治参加(選挙権の獲得)を求める声が高まり、同時に労働運動や部落差別に反対する全国水平社の結成など、数多くの民主的な運動が行われました。

これに対し、内閣は枢密院の議長であった清浦奎吾を首相に選び再び超然内閣を組織しようとしたのです。

これに対して護憲三派が反対したところから第二次護憲運動が始まったのです。

護憲三派内閣とは何か?

では先ほどから何度も出てきた護憲三派、またそれによって組織された護憲三派内閣とは何なのでしょうか。

護憲三派とは立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の三政党のことです。

この三政党が超然内閣に反対し、議会解散の後に行われた総選挙で圧勝し、第二次護憲運動を治めました。そしてこの護憲三派の三政党の連立内閣が組織され加藤高明が首相となりました。

護憲三派内閣は何をやった内閣か?

超然内閣に反対し政権を獲得した護憲三派内閣が行ったこととして上げられるのが普通選挙法の制定、治安維持法の制定、幣原喜重郎による協調外交が代表的です。

第一次世界大戦後、政治参加を求める声が広がっていたことを背景に、満二十五歳以上の男性が衆議院の選挙権を獲得しました。

一般にここまでの流れのことを大正デモクラシーと呼びます。

しかし、それと同時に共産党を取り締まり、天皇制の変革を防止する治安維持法が制定されました。

普通選挙法と治安維維持法は飴と鞭に例えられます。多くの人が政治参加できるようになった反面、天皇制の崩壊や共産党の波及による労働者階級の影響力を抑制するために作られたのです。

また、このとき幣原外相による協調外交がとられました。

これは経済重視の外交を特徴としていて、世界情勢に合わせて柔軟に対応する、という対応が取られました。

結果として軍縮に成功し、軍事費の削減に成功しました。

まとめ

今回は、第二次護憲運動の意味や、歴史背景について解説いたしました。

第二次護憲運動は後の日本に大きな影響を与えました。

具体的には加藤高明内閣が成立してから憲政の常道、と呼ばれる二大政党制に近い理想的な政治が行われるようになったということです。

超然主義に対して民主的な政治を求めて第二次護憲運動が起こり、普通選挙法が制定され、それが後の政治にも受け継がれていきました。

その意味で第二次護憲運動は内閣が日本に誕生して以来、初めて民主主義らしい政治を行うこととなったターニングポイントといえます。

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